nobel1:ななしさん 2022/09/10(土) 22:46:39.92
・ノーベル賞を目標にした「K文学戦略」が恥ずかしい…文学はプロモーションの対象ではない
・偉大な文学は制度・権力・流行の境界外で「涙を拭ってくれる手」
・パステルナーク曰く「ついうかうかとみんなの口にのぼるのは恥ずかしいことだ」

韓国の夢、ノーベル文学賞の新たな受賞者が10月上旬になると発表される。
子どものころ、国語の先生は徐廷柱(ソ・ジョンジュ)、黄順元(ファン・スンウォン)を候補者に挙げておられた。1970年代には詩人の金芝河(キム・ジハ)が有力で、それも日本から推薦されたと知った。その後、幾人もの文人が常連として登場し、最近では比較的若い作家たちが「K文学」ブームに乗ってアプローチしていっているらしい。

だが、K文学(実はほとんどすべて『Kナントカ』)という言葉が、私には気に食わない。私は、文学は商品ではなく、従ってブランド概念もまた適さないという立場の、どうかすると時代錯誤的なオールドファッションだ
。文学は「偉大な瞬間との出会い」であるとした批評家ハロルド・ブルームの古典的定義に依然として歓呼し、本の中に入ってくる全ての人は「言葉の国の市民」になると言った小説家・崔仁勲(チェ・インフン)の見識に大きな拍手を送りたくなる。偉大な文学は生得的で、精度や権力や流行の境界外へ向かうと信ずる。偉大な文学は国籍がないと考える。

だから、韓国政府の関連機関が「K文学グローバル振興(Global promotion of K-books)」プロジェクトを打ち出して拡声器を取り付け、「中国や日本がノーベル賞を取ったのだから、今度は韓国の番だ」といったような機関責任者のインタビューが英字新聞に載るときは、率直に言って恥ずかしい思いを抱く。
それは、文学を前にした恥ずかしさであり、ひたすら書くために生まれたかのように今も熱心に手と頭と心のペンを動かしている立派な韓国の作家たちを前にした恐れ多さだ。文学はプロモーション(セールという言葉のように聞こえる)の対象ではない。文学賞とは、熱烈な翻訳出版と広報で実現する栄誉でもない。ノーベル文学賞を取るために選択と集中で翻訳出版を志向しよう、翻訳家を量産しよう、世界に韓国語を教えよう、広報局をスウェーデンに立てようなどの猪突(ちょとつ)的戦略論に接するたび、当の韓国が最後には取ることになる賞の真の値打ちは低くなっているのではないかとも思う。





こうした気持ち悪さを感じているのは、私一人だけではないだろう。数年前、米国の週刊誌「ニューヨーカー」に載った記事(『Can a Big Government Push Bring the Nobel Prize in Literature to South Korea?』〈巨大な政府支援は韓国にノーベル文学賞をもたらすだろうか〉)で、ある韓国文学エージェントがこのように論評した。「肝心の本は読まずに、ノーベル賞ばかり望んでいるのが残念」。ある翻訳家は「誰かが賞を取った瞬間、韓国文学翻訳院は勝利宣言とともに門を閉じてしまうのではないだろうか」と心配した。果ては「韓国がノーベル文学賞を取る日はいつかは来るだろうが、そういうことがあまり早く起きないことを望む」と回答した韓国学科教授もいる。

ロシア文学はノーベル文学賞受賞者を計5人(ロシア語で書いたベラルーシのスべトラーナ・アレクシエービチまで含めると6人)輩出した。政府筋の作家だったショーロホフを除くと、誰も政府の後援を受けなかった。後援どころか、弾圧や批判を受けるばかりだった。パステルナークがノーベル賞辞退を余儀なくされたのも、親西欧の裏切り者、反革命主義者というソ連当局の荒っぽい世論駆り立てのせいだった。「おりに捕らわれた獣のように私は終わった/(中略)/私を追うのは狩人の叫び声のみ/(中略)/首はわなにはまったまま/それでも私は右手で/この涙を拭いたい」と、パステルナークは詩「ノーベル賞」で書いた。ここの「右手で涙を拭いたい」という表現は、つまり「書きたい」と言っているのだ。作家たちには申し訳ない言葉だが、文学とは確実に、絶望と欠乏の行き止まりで一層力強く噴き出す傾向がある。まさに、文学が「涙を拭ってくれる手」だからだ。

大学では非常にしばしば「ノーベル文学賞受賞作家」の科目を開設している。世界のさまざまな受賞作家の作品を読み、感想文を書き、討論をする教養授業だ。ある日、ある学生が「ヘミングウェーの『老人と海』を読むのは光栄だった」という授業評を残した。学生のそうした評を読むのは、教員である私にとっても光栄である。最後の授業時間に学生たちは、順番に自分が選んだ韓国作家をノーベル賞候補として推薦することになっており、このとき幾人かの作家が固定で登場する。ところが学生たちの推薦の辞は、大して華麗であったり強烈であったりというようなことはない。韓国文学をよく知らないからなのかもしれないし、また、韓国文学で享有してきた面白さや感動が、授業でしばし垣間見た世界のそれとは違う性格だからなのかもしれない。ひょっとすると、「今度は韓国の番」という、そのやみくもで、極めて反学問的な当為性を取り払ったとき本当に見えてくるものの実体が、まだあいまいだからなのかもしれない。今、その実体は一生懸命つくられている最中だ。だから、自ら堂々と姿を現すときまでもう少し待ってみることになりそうだ。

ノーベル賞に選ばれる2年前の1956年、パステルナークは詩でこのように書いた。「有名になることは醜いことだ/これは人間を高めはしない/文書にしておく必要はなく/草稿のままで惜しむがよい/創造の目的は献身にあり/評判でもなく成功でもない/ついうかうかとみんなの口に/のぼるのは恥ずかしいことだ」(稲田定雄訳)

金珍英(キム・ジンヨン)延世大学露語露文学科教授

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/09/08/2022090880841.html

5:ななしさん
もうノーベル症の季節か

7:ななしさん
劣等感の塊みたいな民族だよなぁ

14:ななしさん
もう秋か

25:ななしさん
コウン先生は?

27:ななしさん
パクる事しか出来ないからな
パクりでノーベル賞は無理

49:ななしさん
コウン先生もう89歳か

53:ななしさん
まだ暑いのにもうノーベル?

69:ななしさん
比較的まともな朝鮮人